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西武新宿線/久米川駅近く、空堀川沿いにある「喫茶にじのまど」のブログです。
ここでは期間限定メニューや健康についての記事をのせています。
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本のギャラリー:関ケ原の戦い

「関ケ原」と聞くとパッと思い浮かぶのは、天下分け目の戦いと言われる「関ケ原の戦い」ではないでしょうか? 幾度も小説やドラマ、そして映画で取り上げられました。様々な視点から語られる「関ケ原の戦い」は同じ人物であっても、書かれる立場によって相反する記述も多くあります。多くの物語に触れるにつれて、最近、逆に「関ケ原の戦い」がよく分からなくなったように感じます。物語から離れて、「関ケ原の戦い」を見つめ直してみた特集です。

本のギャラリーでは5月から関連本の展示などを行っています。詳しく知りたい方は展示をご覧ください。

 

☆彡関ケ原という場所 (参考文献:本郷和人著「壬申の乱と関ケ原の戦い」)

「関ケ原」は古くから東と西がぶつかり合う場所でした。

西は交易が盛んで農業性が高く比較的豊かでした。一方東は農業性が低く貧しい辺境の地であり教養のない野蛮人が住んでいると蔑んでいました。 壬申の乱(天武天皇が起こした内戦)〜戦国時代にかけて、「悪い奴は東からやって来る」という朝廷の意識があり、中山道(旧東山道)の要所である関ケ原の手前に壬申の乱後にしばらく不破関を設けるなど、重要な拠点でした。 しかし、江戸時代になると中心が東へと移動し、敵は西から来ると意識が変わり、関ケ原の防御ラインとしての重要性は低下しました。

 

☆彡関ケ原の戦いとは  

慶長五年(1600年)に豊臣側の石田三成を中心とする勢力と徳川家康を中心する勢力とで行われた戦いです。 広義の「関ケ原の戦い」とは日本各地で行われた戦いをさします。狭義の「関ケ原の戦い」とは不破の地で行われた戦いをさします。 石田三成は最初、尾張と三河の国境線で戦う構想を持っていたようですが、福島正則が岐阜城を1日で落城させて進軍してきたため、決戦の地として関ヶ原を選びました。この戦いは徳川家康の勢力が勝利します。

 

☆彡脚色された戦い(参考文献:白峰旬著「関ケ原合戦の真実む」)

「関ケ原の戦い」と聞いて私たちが思い浮かべるのは、小山評定や問鉄砲など多くの名場面。しかし、勝者である徳川家康からの視点であり、私たちは無意識に洗脳され、歴史的事実であると錯覚してきたのではなでしょうか? 今、一次資料(戦いを記述した書状や日記など)による本当の「関ケ原の戦い」を考察する取り組みが進んでいます。

 

〈おなじみの関ケ原の戦い〉

‘狙邁塙が直江兼続(上杉景勝の重臣)の挑発した書状(直江状)内容に激怒して上杉討伐の命を下した

大阪の奉行衆が家康を弾劾するも、上杉討伐のため同行していた豊臣系諸将は小山評定において、一致結束して家康を支持し、石田三成を討つためにすぐ西上した

小山評定後、家康は居城である江戸城に帰って、じっくりと戦略を練り、準備を整え9月1日に江戸城を出馬

➃関ケ原の戦いでは、当日昼前まで石田三成の諸将は奮闘していたが、家康からの鉄砲の発砲に小早川秀秋が驚き突如寝返ったことにより、石田三成方の諸将は敗北した

➄関ケ原の戦いに勝利した家康は九月十五日の夜は、大谷吉継の関ケ原の陣屋に泊まった

このような『おなじみのストーリー』の名場面について、話の出所は軍記物、つまり現代的にいえば小説であり、根拠のない話なのです。

 

〈軍記物が描くフィクション〉

★東軍・西軍という呼称 ⇒東軍・西軍が軍記物で使用された 約100年後、その前は敵・味方

★「逆徒」と「神君」⇒三成を「逆徒」として記載したの は約70年後、「神君」の記載は 約110年が経過した頃、家康を 「神君」三成を「逆徒」として、 勧善懲悪の構図を確定していった

 

〈通説を一次史料から検証〉

★小早川秀秋の裏切り ⇒一次史料(9月17日付け連署状…戦況速報)によると開戦と同時に小早川秀秋などが裏切の石田三成方の軍勢は瞬時に敗戦した。「間鉄砲」の話は記載がない

★大山評定(おおやまひょうじょう) ⇒一次史料には、このことを証明する一次史料は存在せず、フィクションである可能性が高い

 

〈すりかえられた天下取りの戦い〉

関ケ原の戦いの勝因は前線で活躍した豊臣系諸将であり、家康は便乗しただけででした。勝利後に家康は都合の良いようにこじつけを行い、正義の戦いを演出して長く続く徳川支配を正当化していきました。

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