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喫茶にじのまど
平日 /08:00-18:30
土日祝/10:00-18:30
水曜定休日

189-0014
東京都東村山市本町4-13-5,1F
042-395-8841


西武新宿線/久米川駅近く、空堀川沿いにある「喫茶にじのまど」のブログです。
ここでは期間限定メニューや健康についての記事をのせています。
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喫茶にじのまど*おいしいお茶と本のギャラリー
本のギャラリー:夢の中へ…

幼い頃から毎日見る夢は、日常に近い夢からファンタジックな夢まで、覚えているもの忘れているもの色々です。 今、夢は心理学の分野だけでなく、大脳生理学の分野でも研究がされ、眠っている時に通常全ての人か夢を見ていることは明らかになっています。不思議な夢の世界をのぞいてみたいと思います。店内のギャラリースペースでの展示も行っています。興味のある方はご覧ください。

 

◆睡眠は色々ある。

睡眠はからだの機能を回復させ、さらに成長を促す大事な役割を持ち、睡眠中には様々な変化が起こります。

覚醒… はっきりと目覚めている状態。

レム睡眠… 閉じたまぶたの下で、急速に眼が動く。体は脱力しているが、脳は働き夢の中で起きている状態。

ノンレム睡眠…速い眼の動きが起こらない睡眠状態。浅い睡眠、深い睡眠、レム睡眠を一夜中で繰り返します。

 <段階1> まどろみ(入眠期)。半分起きて、半分眠っている状態。

   <段階2> 軽い睡眠。呼吸が規則正しくなり、眠ったという感覚が生じる。

   <段階3> 深い眠り。名前を呼んでもなかなか目覚めず、脳や体温が下がる。

   <段階4> 熟睡。強い刺激でないと目覚めず、脳の活動水準が低下している。

 

 ◆夢はいつ見るのか?

以前、夢を見るのは眠りが浅いためで良くない事と言われました。しかし、レム睡眠中は誰でも夢を見ていることが分かり、さらに最近の研究では睡眠中の全ての段階で夢を見ていることが定説となっています。 ノンレム睡眠の夢は不鮮明で断片的、気分感情の変化をともなうこともなく、日常的で平凡な内容のものが多く、印象に残りにくいようです。  レム睡眠の夢は鮮明な映像や音声、時には皮膚感覚などもともなっており、登場人物の表情やふるまいなどもよくできたドラマになっていて、怒り・恐れ・喜び・悲しみなど、激しい気分をともうものが多いようです。私たちが夢を見たと表現した時の夢は、レム睡眠中の夢になります。

 

◆私の1週間の夢を分析してみる。

平昌オリンピックが終わる頃の時期に見た夢を1週間、覚えている範囲で書き留めました。見る夢はいつもカラーで(人によって白黒やセピア色などの場合もあります)、色彩が鮮明に残ることもあります。

夢の内容を大まかに分類すると以下のようになり、1日の夢の中で、物語も色々と変化します。

・オリンピックに関連する夢が3日。

・江戸時代に関連する夢が2日。  

・仕事に関連する夢が2日。

夢の内容を分析すると寝る前に見ていたオリンピック放送に影響されたと思われること、時代小説をよく読むので江戸に関連したことなど、現実世界で興味あることが夢として表れているようです。また、オリンピックを見て体験したドキドキ感をもっと味わいたいと思いが夢に反映されている気がします。 競争していてもゴールにたどり着けない、オリンピックの映像が見られない、など詳細な夢物語から分析すると、解決ができない、考えなければならない問題があることが表れているのかなと思いますし、自分の思い通りにいかないことに対して、イライラせず、気持ちを落ち着けるようにする、心のトレーニングにもなっている気がします。 今回の1週間の夢では出て来ませんでしたが、いつもとは違う大事な日に朝に遅刻しそうな夢を見たり、歯に不安がある時に歯がグラグラしたり抜けたりする夢を見たり、心身の不安が夢として表れることもあります。 

 

◆夢のメカニズム

未解明なことが多く、様々な説が議論され、研究されています。現在定説となっているメカニズムをご紹介します。  動物も夢を見ていて、ラットを使った実験ではレム睡眠中その日に走った迷路のコースを夢の中で再び走ることが確認されています。からだは眠った状態のまま、記憶の強化と統合という神経回路網の構築をしているようです。  人間の脳が進化し、言語能力や自分の感情を主観的にとらえる能力を獲得しました。脳はその日の出来事と長期記憶の両方から材料を引き出し、夜ごとに新たな夢の物語をつくります。最も多く夢を見るレム睡眠中に、最も活発に働くのは行動や記憶の中枢です。また、人間の夢は感情を処理する役割も持っていて、夢を見る機能がうまく働かないと、感情的な傷が癒えずに、うつ状態や心的外傷後ストレス障害を引き起こすと言われ、夢を見る時間は、脳が私たちの心とからだを良い状態に保つために必要なのです。

 

〜おわりに〜

今回、夢についていろいろ考え、自分の夢を分析してみて、夢に様々な意味づけがなされてしまうと、夢を見る楽しさが無くなることが分かりました。寝る時に今度はどんな不思議な夢の世界へ旅するのか、ワクワクやドキドキして、寝起きとともに楽しく名残惜しい気持ちだけ残して忘れることが一番なのだなと感じました。

| 本のギャラリー | 13:20 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
本のギャラリー:無著菩薩立像・世親菩薩立像

 昨年開催された特別展「運慶」を鑑賞し、肖像彫刻の最高傑作と言われる「無著菩薩立像」「世親菩薩立像」と初めて対面しました。事前に見た写真では「薄汚れた少し気味の悪い仏像だなぁ」と思いました。しかし、眼の前に現れた像は静かな存在感を放ち、穏やかな優しい表情を見せ、心に残る像となりました。興味を持ったこの2体の像についての特集です。現在、本のギャラリーでは関連本を展示中です。

運慶展

無著(むじゃく)・世親(せしん)とは?

実在したインドの兄弟僧です。釈迦が入滅後約1000年を経た4〜5世紀頃(日本は古墳時代、大和朝廷の頃)、北インドで活躍しました。

◆無著(310-390頃)が兄です。伝統的保守的仏教である上座部仏教を学んで悟りを得ても満足できずに大乗仏教を学び、のちに大乗仏教の唯識思想を人々に説きました。

◆世親(320-400頃)は天親とも呼ばれる、無著の弟です。最初は上座部仏教を学び、大乗仏教を厳しく批判しました。兄の無著が病と偽り呼び寄せ、大乗仏教の教えを説き聞かせ、すばらしさに気づき、兄をもしのぐ僧になりました。

*上座部仏教(じょうざぶぶっきょう)…小乗仏教と呼ばれる。出家して厳しい修行を積んだ僧侶だけが悟りを開き救われるという教え。

*大乗仏教…釈迦とその教えに対する信仰心さえあれば、修行の有無に関係なく万人が救済されるという教え。日本の全仏教はこの教えが基本にある。

 

なぜ興福寺でこの像が造られたのか?

興福寺の宗派である法相宗の根本の教えは唯識思想です。「瑜伽の実践によって、世の中の一切は“認識”することで成立しているとう」教えです。無著・世親の兄弟が確立しました。唯識思想の祖は弥勒(270-350頃)ですが、後世に弥勒菩薩と同一視されてきます。 興福寺北円堂の本尊は弥勒如来(弥勒菩薩がすでに如来となった姿)であり、無著・世親が並び立つことで、興福寺が釈迦以来の教えを正統に受け継ぐ寺であることを表していると考えられます。

*瑜伽(ゆが)…呼吸法・座法・瞑想法などの訓練によって心身の制御・統一をはかる修行法。日本ではヨガと呼ばれ一般に広まっている。

 

像を造ったのは運慶?

弥勒仏台座の銘によれば、世親は運慶第五子運賀の担当とされ、無著のほうは第六子運助の担当だろうと推測されています。どちらり像も、運慶の構想にもとづいて造られたと考えられ、運慶の特徴であるリアリズムと勇壮さとが共存していて、運慶作と言われています。 像の特徴 鎌倉時代の作製で、国宝に指定されています。高さは無著菩薩立像が194.7僉∪た栃郢立像が191.6僂任后 両像とも桂材が用いられた寄木造りです。ともに玉眼を嵌め込まれています。 足元は2段に組んだ州浜座(すはまざ)に、本尊側の足をわずかに踏み出して立ちます。

*寄木造り…複数の木材を組み合わせて掘り出す技法。大きな木材を用いなくてよく、また大人数で分担して作業ができる。

*玉眼…仏像の眼をより本物らしく見せるために編み出された技法。仏像の内部から眼の穴に水晶のレズをはめ込むようにあてて裏から眼を書き込む。目が潤んだり、瞳が輝くように見えたり、生きた人間のような眼になる。

*州浜座…河から運ばれてきた土砂が、洲によって入り組んだ形と なった浜辺を文様化し、清浄な領域をあらわしている。

 

最高傑作と言われる由縁

運慶の作品は細部表現が精密に造られ、彫刻に人格を漂わせていると言われます。「無著菩薩立像」と「世親菩薩立像」を対比して見ていきます。 無著は両腕を胸元近くに構え、世親は両腕をやや前方に出しています。腕の構えの違いが衣の表現にも反映されています。手首に懸かる衣の縁で見ると、無著は縁が折り返され、世親は折り返しがありません。 眼差しは、世親の方が首を回し、かつ眼差しは眉間に皺を寄せ気味に水平やや彼方を見据え潤んだような悲しげな視線を向け、一方の無著は眉を谷型に反らせ、眼差しを前方やや下方に落とし慈しみを感じさせる視線です。眼差しで年齢の違い、思考のあり方の違いをも表現しています。

| 本のギャラリー | 22:51 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
本のギャラリー:「ちいさなドール達のワードローブ」

1月に店を彩るのは約11cmの小さいドールたち。

ドールに合わせた小さな洋服を手作りしたのは『和』さん。

春夏秋冬をイメージした洋服と展示をお楽しみください。

 

新年

 

ジューンブライド お買い物

 

夏のヴァカンス

| 本のギャラリー | 11:50 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
本のギャラリー:「手づくり展」開催しました。

下記の日程で行われました「手づくり展」は

100名近くの方に来店頂き、大盛況で終了いたしました。

手づく展の様子

最後は展示品が寂しくなるほど、作品をお買い上げいただきました。

来店された方に参加証として配布していた、

手作りのビニール入れも足りなくなり、追加で作成するほどでした。

ビニール入れ

作品で溢れていたギャラリースペースも、通常の展示に戻り、

ガランとしてしまいました。

年明けには可愛らしい人形の展示を企画しています。

お楽しみに!

 

 

【実施要項】

2017年11月23日(木祝)〜12月3日(日)*最終日は15:00まで

東村山市在住の3人グループが日頃からコツコツと作り上げた作品を展示や即売いたします。

部屋が溢れるばかりの作品がありますので、ぜひお立ち寄りください。

 

展示室

 

展示の様子

 

クリスマスのパッチワーク

 

 

| 本のギャラリー | 13:41 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark | 昨年の記事
本のギャラリー:小石川後楽園と徳川光圀

東京ドームのすぐ隣に小石川後楽園と言う庭園があるのをご存知ですか?江戸時代の典型的な池泉回遊式の大名庭園で、国の特別史跡・特別名勝の重複指定を受け、歴史・文化・自然を兼ね備えています。徳川御三家のひとつ、水戸藩の初代藩主・徳川頼房が作庭を始め、2代藩主・光圀(水戸黄門)がさらに手を入れて完成させました。中国景勝地や様式が日本様式と調和しているのが特徴のひとつです。驚きに満ちた見所が沢山ありますが、その中でも光圀ゆかりの見所をご紹介します。現在、本のギャラリーでは11月21日まで、園内の地図をと合わせて見所を紹介しています。お立ち寄りの際はご覧ください。

 

徳川光圀( とくがわみつくに )1628~1700稲田

「水戸黄門」の通称で知られ、小説・映画・テレビなどによって現在最も親しまれている歴史上の人物のひとりです。徳川幕府が成立した間もない頃、徳川「御三家」である水戸藩の二代藩主となり、以後30年にわたって藩政を指導しました。また、わが国最初の本格的な通史である「大日本史」の編纂にも取り組みました。号を「梅里」と称するほど梅を好んだことも知られています。

*稲田…農村のような景色が広がる中にある稲田は、光圀が後継ぎである徳川綱條(つなえだ)の夫人に農村の苦労を伝えようと作りました。現在は地元の小学生が田植えや稲刈りをしています。

 

朱舜水( しゅしゅんすい ) 1600〜1682円月橋

中国の明時代の儒学者で、明が滅亡の危機に瀕した時に日本に亡命しました。1665年、光圀に招かれて水戸藩に来ました。死去するまでの18年間、光圀の師として過ごしました。小石川後楽園への関わりも深く、光圀が中国趣味豊かな景色を園内の随所に取り入れる際には、円月橋(えんげつきょう)の設計もしたとされます。また、園名をつける時に助言したとも言われています。

*円月橋…中国様式の橋で、水面に映る形が満月のように見えます。

 

園名「後楽園」の由来

北宋の大臣であり、文人でもあった范仲淹(はんちゅうえん)が著した「岳陽楼記(がくようろうき)の一節である「君主は天下の憂いに先じて憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ」から引用したものです。岡山の後楽園と区別するため大正12年に周辺の地名「小石川」が頭につけられました。

 

池泉(ちせん)回遊式庭園とは

自然の山水の景色を写してつくられる庭園の形式を池泉庭園と呼び、山があり、川があり、池がある庭を言います。その庭を歩き回りながら鑑賞するように作庭されたものを回遊式と言います。歩くうちにテーマが変わり、景色が変化することが特徴です。

 

得仁堂(とくにんどう)

光圀が徳を慕い手本とした泰伯( たいはく ) ・伯夷(はくい ) ・叔斉(しゅくさい)の3つの木像を祀ったお堂です。このうち伯夷・叔斉の木像は現存します。若い頃の光圀は粗暴であったと言われ18歳の時、司馬遷の「史記・伯夷列伝」にある伯夷・叔斉の物語を読んで感銘を受け、以後行動を慎み、学問に励みました。得仁堂と言う名前は孔子が伯夷・叔斉を評した言葉「求仁得仁(願ったり叶ったりという意味」に由来します。関東大震災、第二次世界大戦で焼失を免れ、当時の姿を留めている唯一の建物です。

 

八卦堂跡(はっけどうあと)

光圀が7歳の時、初めて3代将軍・家光に謁見しました。その時「文昌星(ぶんしょうせい)」の像を頂戴しました。のちに光圀は学問を好むようになり「文昌星」の像を思い起こし、八卦堂を造って安置したと言われています。このお堂は関東大震災で焼失しましたが、「文昌星」の像は運び出され、現在は水戸市の徳川ミュージアムにあります。

*文昌星の像…中国の学問の神と言われ、書物を足元に据え、筆と硯を手に天を駆けています。

| 本のギャラリー | 23:12 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
本のギャラリー:阿倍仲麻呂「天の原〜」

「天の原 ふりさけみれば 春日なる  御笠の山に いでし月かも」は 百人一首にも収められている阿倍仲麻呂が詠んだ有名な短歌です。学生の頃、彼が唐の国から故郷を思って詠んだ歌と教えられましたが、 その意味を深く知ることはありませんでした。 そして、今年開催された春日大社の展示会で「春日」とは春日大社であるとの説明を聞き、 この短歌にまつわる背景を調べてみたいと思いました。9月・10月は本のギャラリーで展示も行っていますので、合わせてご覧ください。

 

<短歌の直訳>

広々とした空の遠くを見ると、 春日にある御笠の山にも出ていた月だなぁ

 

<歌につけられた注記(現代語訳)>

この歌はかつて仲麻呂を留学生として唐土に派遣したところ、 長く年を経ても帰国が叶わなかったのを、我が国からさらに使節が派遣されて到着したのを機に、連れ立って帰国させようとして唐の都を出発したところ、明州という海辺でかの国の人々が送別会を開いてくれた。 すると夜になって月があでやかにさし上がったので、それを眺めて詠んだものであると今に語り伝えられている。

 

<短歌を意味を読み解く>

★この短歌からわるか情報は春日という土地があり、そこに御笠山という山があるといことだけである。

★「御笠の山の月」の謎…奈良時代の遣唐使が平城京を出発する前、二月の春日祭神の日に御笠山・春日山のふもとで、神に航海の安全を祈願した史実があり、その時の映像が故国の記憶として鮮明に残っていたのではと言われている。

★「いでし月かも」の「し」…回想の助動詞と言われる「き」の 連体形「し」が使われている。   

 ▶今、見ている月→見た場所、見えた場所は明示されていない。   

 ▶かつて見た月→春日にある御笠山の月だが、 いつ見たかは明示されていない。   

 *明示されているのは昔、春日にある御笠山の月を見たということだけ

★「見れば」の「ば」…接助詞の「ば」に注目すると、 「巳然形+ば」は確定条件を示すので 「〜スルト」「〜ナノデ」と訳される。 *通常「ば」に続く言葉には今見ている月の内容が表現されなければならないが、表現はなく、過去の月が表現され、どのような心情で詠んだのか、聞き手と読み手が短歌の内容を推理していく作りとなっている。

*短歌や俳句という文学、いわゆる短詩系文学は聞き手と読み手の想像力に依拠して設計する余韻・余情の文学であり、この短歌にはよく表れている。

 

<短歌にまつわる歴史的背景>阿部仲麻呂記念碑

◆阿倍仲麻呂◆

奈良時代に遣唐船に乗り717年に唐に留学しました。唐の皇帝に忠誠を誓いその臣下となれば誰でも試験を受けられますが、受かるのは千人に一人とも言われる「科挙」の試験で及第(合格)となりました。その後栄進し、国立図書館長などの地位につき、玄宗皇帝から厚い信頼を得ました。そのため、なかなか帰郷を許されず、753年にようやく許され、帰国しようとしましたが船が難破し、ベトナムに漂着してしまい、日本に帰国することは叶わず、3年後唐に戻り、そのまま生涯を終えました。

成していました。また、国を治めるための制度である律令法が完成していて、それが奈良・平安時代の日本にも律令体制が導入され、現在まで続く日本国の枠組みを作り出しました。

◆春日大社◆

春日の神が御岳山に祀られたのは今からおよそ1300年前、奈良に都(平城京)が遷された頃です。御笠山は奈良の都から東に位置し太陽と月が登り、都を流れる川の水源となる山で、奈良の守り神を祀るのにふさわしい山でした。その御笠山の裾野に建てられたのが春日神社です。

◆遣唐使◆

西暦630年から894年までの間、日本から中国の唐に派遣された公式の使節(朝貢使)です。およそ10数年から20数年の間隔で遣唐使の派遣が行われました。大使・副使とその随員以外にも、通訳・医師・留学生・留学僧、楽師、各種工人たち、また船を操る船師 (船長)、船匠(船大工)、その他の船員(漕ぎ手など)や射手たちなど、1隻に100〜120人ほど乗り込みました。遣唐使の目的は唐を中心とする東アジアの国際情勢の情報入手と、先進的な唐文化の摂取でした。長年にわたり派遣され続けた遣唐使は、唐の政治制度、仏教、文化・技術などを学び、また書物・工芸品などの文物を 持ち帰り、日本の国造り、文化の発展に大きな影響をもたらしました。  

◆唐(618年−907年)◆

約300年間も存続した安定した王朝でした。都はシルクロードの出発点である長安(現在の西安)におかれ、東西文化が融合した国際色豊かな文化の形

◆玄宗皇帝◆玄宗皇帝像

712年に皇帝となり、治世の前半は「開元の治(かいげんのち)と呼ばれる政治で、中国史上とても安定した政治で唐を絶頂期に導きました。しかし、治世の後半は政治に飽き、楊貴妃を寵愛したことから政治を放棄し、755年には「安史の乱」と言われる反乱を招き都・長安を追われますます。この乱で皇帝の地位と楊貴妃を失い、長安に戻って半分軟禁された状態で過ごし、762年に崩御しました。

◆奈良時代◆

唐の都である長安にならい、710年に奈良に平城京がつくられ、都が移ったことから始まり、794年に平安京が移るまでの時代を言います。仏教によって国を安定させようと、大仏や国分寺が建立されました。和同開珎(わどうかいちん)という貨幣も使われました。 万葉かなと言われる文字が使われるようになり、「古事記」「日本書紀」「万葉集」などの書物もつくられました。
 

| 本のギャラリー | 16:52 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
本のギャラリー:児玉房子さんを追想して

先日、惜しまれながら永眠されたガラス絵作家の児玉房子さん。東村山にも住み、当店でもガラス絵展を開催するなど、ゆかりある人でした。児玉房子さんとガラス絵の魅力を伝える展示を7月・8月で開催中です。

 

児玉房子さんの紹介

東京生まれ。1968年から油絵を描き、1972年にガラス絵を描きだす。1992年〜96年にかけてコスタリカを5回訪れ、その後コスタリカのガラス絵展を各地で開催する。1995年に岩手県遠野市に移住してからは宮沢賢治の童話を題材としたガラス絵制作を手掛ける。2015年常設展示施設「天ヶ森ガラス絵館」を開館する。2017年多くの人に惜しまれ永眠する。

 

ガラス絵と児玉房子さん

17~18世紀頃よりヨーロッパで描かれるようになったガラス絵は板ガラスの一面に絵を描き、反対の面よりガラスを通して鑑賞します。表面がガラスに覆われ、透明感のある鮮やかな色彩かいつまでも保たれます 児玉房子さんがガラス絵に取り組んだきっかけは「何のために絵を描いているのか?」と壁にぶつかった時、自分が本来目指していた絵の在り方を見つめなおし、自分の条件に適った表現としてガラス絵が浮かび上がったからです。ヨーロッパを旅して、ガラス絵の表現を広げていきました。

54歳の時、北の方で自然の抵抗があり米が作れて畑ができて住める家を探し、岩手県遠野の附馬牛(つきもうし)が気に入り移住を決めました。自給自足の生活をして、神々しい北の大地のいとおしさ、きびしい自然の中での人間の連帯が分かりました。春一輪のスイセンの美しさは東京の満開の花園より感動しました。遠野での生活が絵を描かせ、宮沢賢治の作品と精神を深め絵本を描く原動力となりました。そして、この地に「天ヶ森ガラス絵館」をお手製で作り上げました。

天ヶ森ガラス絵館の外観 ガラス絵

当店での展示会

◆ガラス絵の宮沢賢治『ひのきとひなげし』原画展2007年5月1日〜5月31日

◆ガラス絵の宮沢賢治『虔十公園林』原画展2007年12月1日〜12月29日

◆小説「われら青春の時」挿絵原画展2010年4月1日〜4月30日

◆ガラス絵展「コスタリカ」2012年8月10日〜8月30日

 

| 本のギャラリー | 18:05 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
本のギャラリー:日本アニメの100年

日本の常設映画館で国産のアニメーション映画が興行されたのは1917年(大正6年)の東京・浅草でした。2017年は100周年にあたります。この100年間の間に日本で製作発表されたアニメは約1万1千作品と言われ、日本を代表するコンテンツとなりました日本映画の興行収入はトップの「千と千尋の神隠し」をはじめ上位をアニメがしめています。日本人のほとんどがアニメと供に育ち、幅広い年齢が受け入れやすい基盤ができ、アニメの話題作は多くの人を集めます。日本アニメとは?をテーマに切手やチラシの掲示もしながら、本のギャラリーでは紹介しています。

 

アニメーション(Animation)とは

語源はラテン語のAnimaで「生命・魂」という意味があります。もともと止まっている絵や物を動かして撮影し、それらをつなげて動いているように見せる技法です。ノートの隅で作るパラパラ漫画が動いているように見えるのと同じようなものです。

 

日本アニメ100

日本アニメの流れ

1917年(大正6年)外国の短編アニメを参考に試行錯誤し、3人の作家が国産アニメ映画を発表する。

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1945年(昭和20年)国威発揚の目的で日本初の本格的長編アニメ映画「桃太郎・海の神兵」が公開される。

戦後、アメリカからディズニー映画を中心としたアニメが大量に入ってきて国民に衝撃を与えた。

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1956年東洋のディズニーを目指し東映動画(東映アニメーション)が発足。2年後の1985年に「白蛇伝」が日本初の国産カラー長編アニメ映画を公開した。

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1963年国産アニメシリーズ第1号として「鉄腕アトム」の放映が開始。可能な限り動きを省略して労力や予算を減らす手法で行われ、以後テレビアニメの主流となった。ストーリーや見せ場で視聴者を魅了する日本アニメ独自のスタイルが発展していく。

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1968年「巨人の星」のテレビ放映が開始。勝負の時の緊張感、燃える闘志など、心理描写を最先端の技術で描き、物語に加え、技術と映像の妙で見せる日本アニメに大きな影響を与えた。

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1974年「アルプスの少女ハイジ」の放映が開始。美しい音楽と背景画、丁寧に描かれた日常生活、人の仕草や心理描写など、高い完成度をほこった。

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1977年、劇場版「宇宙戦艦ヤマト」が公開され大フィーバーとなる。アニメファンの拡大を知らしめた。

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1988年アニメの金字塔、海外でも圧倒的な知名度を誇る「AKIRA」が公開。「リアルさ」にこだわり、SF世界を現実の世界として観客に体感させた。

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1995年「新世紀エヴァンゲリオン」の放映開始。文化芸術面を含めた社会現象を巻き起こし大ヒット。

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2001年、現在も不動の1位、興業収入308億円を記録した映画「千と千尋の神隠し」が公開される。

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2006年にテレビ放映された「涼宮(すずみや)ハルヒの憂鬱」はデジタル発展でリアルさ増し、親近感を呼び、ネットを通して口コミで広がるヒットにつながる。

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2016年、映画「君の名は。」「この世界の片隅に」のヒットでアニメ映画のもつ力に注目が集まった。

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2017年日本アニメが誕生して100年目を迎える。

日本アニメ100年

 

日本アニメの独特の世界

海外で「アニメ」と言えばディズニー作品や各国のアニメーションと区別して日本アニメメーションのことを指します。それだけ日本アニメは独特の発展を遂げてきました。特徴をまとめると、‖仂歿齢が幅広い多彩で複雑なストーリーファッション性ぜ衂舛の良さを生かす手法、になります。

| 本のギャラリー | 21:41 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
本のギャラリー:長谷川平蔵と鬼平の誕生

昨年12月、中村吉右衛門が演じる【鬼平犯科帳】がファイナルを迎えました。原作者の池波正太郎が「鬼平」を生み出してから約半世紀、「鬼平」と聞くだけで、物語の世界がパッと目の前に広がるほど長い間に親しまれ、みんなの心に強く刻み込まれています。そんな「鬼平」誕生の物語を紐解いていきます。本のギャラリーではさらに詳しい説明と【鬼平犯科帳】の文庫本や関連本を展示中です。ご来店の際には手に取ってご覧ください。

 

鬼平犯科帳とは?

作家・池波正太郎が昭和42年(1967年)12月「オール讀物」に掲載するため長谷川平蔵が登場する「浅草・御厩河岸」という題名の短編を書いたことで、シリーズ化を決定し、【鬼平犯科帳】のシリーズ名で連載が開始されました。

 

長谷川平蔵とは?

長谷川平蔵=鬼平は長谷川平蔵宣以(のぶためが正式な名前です。『長谷川平蔵』は通称で家系の中に総勢で6人おり、火付盗賊改とし活躍したのは父・宣雄と宣以の2人でした。【鬼平犯科帳】が書かれる以前は火付盗賊改に長谷川平蔵という人物がいて、人足寄場設置の立役者であるこしか知られていませんでした。

 

「鬼平」の誕生は20年の歳月がかかった!

池波正太郎が「平蔵を描きたい」と心の中で思ったのは昭和22年(1947年)から参加していた長谷川伸の勉強会「新鷹会(しんようかい)」がきっかけでした。長谷川伸の書庫に徳川家の家系の事や家臣団の事を書いた本を発見したことから興味を抱きます。 昭和30年(1955年)ごろの33才の時、芝居にしようと思い立ちましたが、平蔵を演じられる役者がいませんでした。

昭和35年(1960年)直木賞を受賞し、平蔵を小説にしようとしますが、文体が硬く、江戸時代の世話物は書けないと思い、胸の内で暖められ育ち続けます。「鬼平」の連載開始の前、「江戸怪盗記(1964年)」に長谷川平蔵が登場した短編が書かれ、「白波看板(1965年)」には平蔵が心臓発作で亡くなる短編も書かれました。

着々と準備がされ、ついに昭和42年(1967年)に連載がスタートします。

 

テレビが「鬼平」を世間に広めた!

「鬼平」は連載開始後すぐに映像化の話が持ち上がり、作品の雰囲気を大切にするため、池波正太郎の友人である市川久夫がプロジューサーとなりました。「鬼平」を書くときにイメージしたと言われる八代目松本幸四郎のちの白鸚を主人公に昭和44年(1969年)10月「血頭の丹兵衛」が第1回作品としてスタートします。

その後、丹波哲郎と萬屋錦之助が演じました。

二代目中村吉右衛門は平成元年(1989年)7月「暗剣白梅香」から演じ、大人気となり、27年もの長きにわたりシリーズが続きました。

今年1月からはアニメ「鬼平」がスタートし、新たな展開が始まりました。

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本のギャラリー:フィギュアスケートのこの10年

記念すべき第1回の特集はフィギュアスケートでした。

店が開店した2006年は冬季五輪・トリノ大会が開催され、日本が唯一獲得したメダルがフィギュアスケート女子シングルス・荒川静香の金メダルでした。金メダルの獲得でフィギュアスケートの人気は高まり、この10年で国民的人気スポーツに変貌をとげました。どのように変化したのか?考えます。

本のギャラリーでは11月からこの10年の移り変わりを紙面で紹介したり、過去の雑誌の展示も行っています。お立ち寄りの際はぜひご覧ください。

 

<女子シングル…浅田真央と金妍児>

荒静香は冬季五輪・トリノでの金メダル獲得後に現役引退します。変わって主役に躍り出たのが浅田真央です。トリプルアクセルなどのジャンプを武器に数々の大会で優勝を重ねます。時を同じくして、同い年の金妍児が芸術性を武器に頭角をあらわし、ライバル関係としてマスコミがあおり世間の関心が高まり、頂点に達したのが冬季五輪・バンクーバーです。バンクーバーでは金妍児が金メダル、浅田真央は銀メダルでテレビの前で流した涙は印象的でした。 その後、浅田真央が現役を続行したことで、国民的ヒロインとして世間の注目を浴び続け、有望な選手も多く出現し、フィギュアスケートの人気が世間一般に定着していきました。

 

<男子シングル…高橋大輔の銅と羽生結弦の金>

冬季五輪・バンクーバーで日本男子が史上初めてメダルを獲得します。怪我を乗り越え、バンクーバーの舞台に立った高橋大輔です。この快挙で男子への注目が高まります。高橋大輔を筆頭にベテランが引っ張り、人気も急上昇した中で成長し、彼らを追い越して冬季五輪・ソチで金メダルを獲得したのが羽生結弦です。 バンクーバーからの4年間、パトリック・チャンがトップに君臨していました。いかにパトリック・チャンを上回り、日本男子が勝つことができるのか?期待感が持たれた中での金メダル獲得。その後、羽生結弦は世界記録の更新を何度も行い、世間の注目を集め続け、フィギュアスケートは女子よりも男子の人気が上回るようになりました。

 

<採点システムの変更>

昔フィギュアスケートの採点は6.0を最高点とする方式でした。しかし、冬季五輪・ソルトレイクシティで採点・判定疑惑が発生し大スキャンダルへ発展、主観性を極力排除した新採点方法へと変更されました。 この新採点システムが初めて導入された五輪がトリノです。スケートのこの10年は新採点システムとともに歩んできました。

特徴は未完成な技をプログラムに入れてミスすると大きな減点となるため、技の完成度、さらにスケート技術をはじめ、すべての質をあげることが求められます。以前の採点方式より評価の軸がはっきりしました。 冬季五輪・バンクーバーまでは技の完成度が重視されすぎて、4回転を跳ばなかった金メダリストが誕生し、大議論となりました。4回転の得点が高く設定され、回転不足も緩和されたため、現在は4回転を複数跳ぶ時代に突入しました。

採点表が公開されるため、ファンにとっても審判の出した評価が知れて、一つ一つの演技に興味を持てるようになってきました。また、フリーでの大逆転も起こります。より分かりやすく、楽しめる競技へと変貌しました。 同時期に、日本の選手が世界で互角に戦い、優勝も当たり前となる時代と重なり、フィギュアスケートを国民的な人気へと押し上げていきました。

 

 

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